神戸ゴルフ倶楽部(日本最古のゴルフ場)

4049y Par 61


言い残し忘れたことがある。諸君、神戸ゴルフ倶楽部に、これはいかん、あれはいかん、そういうべからず集はない。
考えれば、分かるだろう。先輩会員を見れば、分かるだろう。分からなければ、聞けばよい。

教えてもらって、笑えばよい。ここは、みんなが心おきなく楽しむ大人の遊び場だ。

Arthur Hesketh Groom


朝早くコースに到着するとおじさんがいました。コース関係者(グリーンキーパーさん等・・・)の方だと思っていましたが、コースの管理人の方で、
クラブハウス横の管理人室にお住まいだそうです。

ちょこんと有るクラブハウス入り口から入り受け付けを済ましてロッカールームに行きましたが、古〜い木製のロッカーは施錠出来ません・・・(汗;)

クラブハウス内でクラブを10本選択し、小さなバッグに入れ替えます。でないと、アルバイトキャディー君が4つも持てませんから・・・(重;)
この10本は、一度ラウンドすると容易に選択出来るようになります。

OUT

IN


11番スタートで、スコティッシュ・クラシックとの直面

 1901年(明治34年)、アーサー・ヘスケル・グルームが、神戸・六甲山上に4ホールのゴルフコースを造ってプレーを始めた。
それから100年、2001年日本ゴルフ界はこぞって、「日本のゴルフ百年」を祝ったものだ。

しかし神戸ゴルフ倶楽部は、クラブハウスロビーのグルーム像の傍らに、「当倶楽部の百周年は2003年です」と貼り紙して、
固有の歴史に怐ってみせた。1903年(明治36年)5月24日、倶楽部は初めてパイオニアメンバーを組織して神戸ゴルフ倶楽部(会長A・H・グルーム)を創立、
服部兵庫県知事を迎えて開場始球式を行っている。コースも9ホールに増えていた。

それから100年。2003年(平成15年)秋、筆者は、爽やかな小春日和の六甲山ゴルフ場を初めてプレー、滅多にない幸運に恵まれた。
 六甲山ゴルフ場は、1番ホールをスタートして18番グリーンへ上って終わる、18ホールスルーの展開になっている。
しかし来場者が多いときは、アウト1番とイン11番から分れてスタートする。10番ティは、クラブハウスから遠いのだ。

私は11番からスタートした。11番(190ヤード・パー3)は、小高い丘を超えて見えないグリーンへ飛ばすブラインドのパー3である。
ピンは丘を超えた向うの直下、全く見えないから、頂上のポールを頼る以外にない。「パー3は1オンがセオリー」と考えている日本人には、不届きな設計に思えるが、
ゴルフの故郷英国、スコットランドでは、そんなに多くもないがそんなに珍しくはない。

自然をうまく戦略化したクラシックな難ホールとして、たとえば全英オープン発祥のプレストウィック5番、アイルランドのラヒンチ6番などは、
日本人にも知られた名物のブラインド・パー3だ。私はいきなりの幸運と喜んだ。 レギュラーからも186ヤード、高さ10メートルの丘だ。思い切り飛ばすしかない。
1オンは忘れて思い切り打つ、途中の丘の下り斜面に落下すると、深い草木で、2オンどころか3オンも難儀になる。まぐれで1オンしたりすると拍手喝采である。

アーサー・ハスケル・グルームと初めの9ホール

 1846年ロンドン郊外セモアに生れる。1868年(慶応3年)神戸開港の年、兄フランクとトーマス・グラバーが共同経営するグラバー商会の
支店設営のため神戸に入国している。その年に大阪・玉造の士族の娘宮崎直(18歳)と結婚。グラバー商会の後独立。神戸の日本茶、横浜の生糸などの輸出入で成功、
オリエンタルホテル経営にも進出している。1985年(明治28年)6月、グルームは、息子宮崎亀次郎名義で三国池周辺の土地を借り受け山荘「101」を建てた。
六甲山上の山荘第一号である。5、6年のうちに夏場だけの異人村が形成され、山荘も56軒に達した。

1905年(明治38年)には、六甲山に別荘をもつただ一人の日本人小倉庄太郎が会員となり、
妹末子と共にゴルフを始めている。末子は、ゴルフをプレーした日本女性第1号である。

4ホールのコースが生れるきっかけも101山荘での、故郷を偲んでの仲間の歓談からだった。1898年(明治31年)から、グルームは、W・Jロビンソンなど
4人の協力で、岩を掘り起し、雑草や笹の根を刈り取ったりと、整地作業を開始、1901年(明治34年)秋、最初の4ホールが造られた。

1番ホール(180ヤード・パー3)。4ホール時代のヤーテージは残っていない。ティは現在の位置とほぼ同じ、現在のグリーンは、丘の頂きにあるが、
頭初のものは、マッシー5番アイアンで打ったりという記録があるから、150ヤードぐらいだったか。現在のフェアウエイが、山に上りかけようとしている登り口あたりだろうか。

2番(パー3)は、西村貫一著『日本のゴルフ史』に、“現在のものと同じ”とあるから165ヤードの軽い打ち下ろしだったか・・・
 3番のティは、現フェアウエイ南側のOB区域にあって、現在の5番グリーン付近にあるグリーンに向かって打っていたようだ。
 4番ホールは、現2番ティやや北側のティから現6番グリーン近くにあるグリーンへ狙っていたようである。
 20人前後の仲間だけのプレーだから、スコアカードにヤーテージもボギー・パーもなかったようだ。

9ホールの頃は、1〜6番は、ほぼ現在と同じ。7番ホールは、現11番(パー3)を、丘越えではなく、右の山裾側へ打つパー3だったようだ。
8番は現在の16番、9番は現18番ホールを、現状よりもやや原初化したものと考えたらよいか。9ホール時代も各ホールのヤーテージは不詳である。
9ホールの設計は、スコットランド生れのJ・アダムソン。

六甲山ゴルフ場の魅力

 18ホールとなったのは、1904年(明治37年)10月。9ホールが増設され、18ホール・3576ヤード・ボギー78のコースとなった。
3、4番を除き、ほぼ現在の原型となるデザインだという。設計はマックマートリイとアダムソン。ティグランドもグリーンもすべて砂を固めたサンドグリーン、ティだった。

全18ホールがグラスティ、グラスグリーンとなるのは、1933年(昭和8年)まで待たねばならなかった。グリーンがグラス化すると同時に、グラスバンカーは砂のバンカーに姿を変えた。
 現在のホールでは、11番と並んで、7、8番そして16、18番ホールが興味深い。筆者は昔は、7、8番2ホールを「蹲った巨獣の背中のような地形の2ホール」と描写したことがある。
7番(275ヤード・パー4)は、巨獣の背中越えでブラインドのグリーンを狙うスリルが豪快、北スコットランド風の古典の匂いがする景色である。
ハンディキャップ2の難ホール。8番(216ヤード・パー4)は、その逆、気が遠くなるほど高く掲げたグリーンへ、山肌を取りすがりながら打ちつなぐ苦労が、また楽しい。

16番(366ヤード・パー4)は、高いティグランドから右廻りに大きく打下しながら、遥か下に見えるグリーンを狙う大きな戦略性をもったホール。
9ホール時代の8番で、人気を集めたパー4だ。18番(238ヤード・パー4)六甲山ゴルフ場のフラッグシップホール的存在。このティからみる赤煉瓦のクラブハウスは、
文句なく美しい。特に夕景がいい。第1打を短く打下し、第2打を左へ短か目に打ち上げるホールだが、谷越えとはいえ、225ヤードだ、
1オンを狙いたくなる。ドライバーを使えるホールが少ないだけに、最後でムラムラとくる?蘊蓄でいえば、最初に1オンした人は、大正時代のアマチュアの
先駆者日本アマチャンピオン川崎肇氏だった。
(因みに、18番ホールは、昭和38年頃まで、冬になるとスキーのゲレンデとして開放されていたことがある。)

六甲山ゴルフ場の18ホール・4019ヤード・パー61は、自分の中の六甲山理解を育て上げた上でプレーするとより有意義なラウンドが期待できるコースだ。
このコースで、ゴルフ古典の審美性をどれだけ甘受できるか、それはその人のゴルフ教養にかかっている。
このコースの玄関を出るとき、スコアを勘定するようではいけない。最後に「ヒッコリーシャフトの貸クラブでもあるともっと気分が出るね」
(前日本プロツアー機構専務理事渡辺一美氏の言葉)という感想を紹介しておこう。

所在地  兵庫県神戸市六甲山町一ヶ谷
開場  明治36年5月24日
コース  18ホール・4019ヤード・パー61
設計  アーサー・H・グルーム
コースレート 61.0
コースレコード (アマ)廣海 浩三  57

「田野辺 薫氏の名コースめぐり」より・・・