泉南カンツリークラブ 6512y(5865y) Par72



泉南カンツリークラブの創始者小竹林二は、紀州和歌山で400年続く豪族小竹一族の直系。昭和27、28年頃、和歌山白浜で
白浜明光自動車(株)を経営していた。その頃林二は、機会あってゴルフを楽しむ。しかし。当時の泉南では、ゴルフ場といえば
戦前からの大阪GC淡輪だけである。小竹はもう少し大らかに楽しめるコースはないか、と思いを抱くようになっていた。

「いっそ関西の川奈を造ろう」と。関西ナショナリズムが刺激され、生まれたのが昭和31年開場の白浜ゴルフ俱楽部である。
小竹林二も参画、後に社長、理事長を務めている。

小竹林二は、慶応義塾大学卒業後の白浜明光自動車の経営を継承する。ある年、小竹は3カ月フランスに遊ぶ。その間に
フランス文化に傾倒、シャトーのあるワイン農場を買収して帰国する。

しかしこの3カ月の間に日本では大異変が起こっていた。小竹一族の持株比率が激減。白浜明光自動車の経営権を失う。
小竹は、持株を近鉄に売却。得た資金で「念願のゴルフ場をつくろう」と心機一転。折から泉佐野郊外の平坦な
丘陵地に120万平方メートルの適地が見つかった。

殆ど平行して、小竹林二は、パリ郊外フォンテンブロー近くの森を買収、ゴルフ場を計画。しかし環境規制で実現不可能。
その森をディスカール・デスタン元大統領主宰財団インセアード大学に寄贈。小竹のフランス傾倒はますます濃密になる。

そういうわけで、昭和35年12月3日開場の泉南カンツリークラブの18ホールは、神戸在住J.E.クレーンの設計ながら、
小竹林二の溢れんばかりのフランス憧憬で満ちあふれていた。2代目のクラブハウスは、中世フランスのシャトー風
石造り。その中にフランス料理レストラン、サロン「ボルドー」があった。キャディの制服もフランス国旗3色旗から
デザインという徹底ぶり。「スコアではない、メンバーは楽しむサロンだ」がモットーだった。

「美しい日本のゴルフコース」より・・・

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