西宮高原ゴルフ俱楽部の草創期は、鳴尾GCの遺伝子を持った人たちで造られたもののようだ。
昭和30年代初め、鳴尾GC会員の山田元次は、売布という所に小さな山を持っていた。9ホールなら造れそうだ。
設計は誰がいいか、ゴルフを教わっている上西荘三郎に相談。上西は設計の師、鳴尾GC猪名川コースを設計した
クレーン3兄弟を紹介した。
測量してみると少し狭い。他の土地を求めて現在地を探し当てたが、資金が不足。相談した弁護士が呉羽紡績の顧問だった
有地寛。彼は同社社長・伊藤恭一を誘う。伊藤は「週日は鳴尾浜の9ホールへ、日曜は猪名川のコースへ欠かさず
出かける」鳴尾GCメンバー。関西でも知られたアマチュアで、もちろんクレーン兄弟とも親しい。
だが、神戸GC、茨木CC、廣野GCにも入会、もう結構と逃げるが、一度だけ現地を見たのが運命、以後20年以上
理事長を勤めることになる。現地にはすでに、ここがティ、あそこがグリーンと竹の棒のルーティングができていた。
以上登場人物を説明すると伊藤が理事長の他、山田は初代社長、有地は倶楽部常務理事、クラブハウスを
設計した佐野正一は鳴尾GC猪名川コースのハウス設計者、西宮高原ゴルフGCでは俱楽部キャプテン、
みんな鳴尾GC族である。
9ホールの仮オープンは昭和36年10月、正式開場は遅れて昭和38年5月。設計者ジョー・E・クレーンは
「谷が4つ、山も3峰程ありました。それをどういう風にしようかと考えて結局切ってならしました」と語っている。
景色よし空気よし、それで難しさを忘れてしまうが「スコアを見ると、なる程難しい、と思います」「猪名川の方が
平凡に見えますよ」「広野も平凡に見えて難しい」というメンバー問答が残っている。
ゴルフをやらなくなったジョー・E・クレーンは、クラブハウスのマントルピースの前で一日中座って余生を
過ごしたと伝えられている。
「美しい日本のゴルフコース」より・・・ |