三重カンツリー
クラブ

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Par72


クラブハウスを出て1番スタートへ急ぐ橋の袂に、ゴルフ地蔵が佇む。建立したのは、このコースの設計者・保田与天。「球悦に浸る時こそ危ふき哉」に
始まる安全と技術上達を祈願した碑文付きだ。三重CCは、保田与天抜きでは語れない。

三重県三重郡菰野町大字千草。三重CCの所在地「千草」は、戦前の陸軍千草演習場で、クラブハウスの場所となった旗等高地が司令部跡だった。
戦後演習場は、地元に払下げられ、菰野町千草財産区が生まれた。

昭和32年菰野町役場、千草財産区管理会、三重交通の間で、財産区の売買、賃貸借契約が結ばれ、そこからゴルフ場計画が生まれた。
翌33年5月15日ゴルフ場設計測量のため、設計者・保田与天が、助手吉田雄を伴って初めて菰野町に入った。千草財産区は、鈴鹿山脈の
主峰、標高1200メートルの御在所岳をバックに、域内を三滝の渓流がめぐる芦(草)苅場だった。高見に昇ると七里先の伊勢湾に掛かる
美しい虹が遠望された。

昭和34年2月6日株式会社三重カンツリークラブ創立総会、資本金2000万円、社長・安部正敏(三重交通社長)、昭和35年7月20日、
先行していたコース造成が完了する。

工事終了を前に、プライベート制かパブリック制かで意見が分かれる。保田が「川奈ホテルゴルフ場に習って少数の会員を募集、運営の
主体を置くべき」と強調。セミパブリックのリゾートコースに決定。入会金30万円」で300名の賛助会員を募集した。
因に当時の川奈ホテルゴルフ場は、20年限定会員制のセミパブリックだった。

同年11月3日湯の山ゴルフ俱楽部が発足(昭和41年三重カンツリークラブに名称変更)。

昭和35年10月2日本開場。保田与天は名誉書記として運営を担当。昭和44年1月9日、80年の生涯を終えるまで三重CC、菰野を
離れることはなかった。自分の設計したコースで人生を終えるのは、設計者の至福である。

「美しい日本のゴルフコース」より・・・


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