田辺カントリー倶楽部

6880y(6450y) PAR72



田辺カントリー倶楽部は、ただひとりの財力で造られた、まぎれもないプライベートクラブである。恐らく戦後で唯一。
日本ゴルフ史と通しても大正9年、南郷三郎が神戸市垂水に造った舞子C以来である。

その人は大阪製鋼社主・高石義雄。ハンディキャップ8のゴルフ上手。昭和33年といえば、第一次ゴルフブームが始まっていた。
休日にはスタート予約もままならない。宝塚GCをプレー中、高石義雄が、同伴の寺本清次郎(後にキャプテン)に
呟いた。「われわれ仲間だけでいつでもプレーできるゴルフ場を造りたいね」「18ホールを造るくらいは、私ひとりの
力でなんとかなる」

2年後、独り言が現実に動き出す。場所は、大阪府との府境近く田辺町(現、京田辺市)に、土地柄には珍しい
フラットな好適地を得て、昭和35年3月11日着工、9月1日仮オープン、11月6日には18ホール・6648y・パー72が
完成する。設計は、日本アマ4回優勝、廣野GCクラブチャンピオン12回、廣野GCキャプテン佐藤儀一だった。
その才気煥発ぶりは、5番600ヤード・パー5、6番204y・パー3を置くなど当時の常識からはみ出した構想に
よく現れている。

俱楽部運営も独特、経営母体は任意団体(経営責任は高石個人)、会員数は300名、最大500名、
会員譲渡は不可と、プライベートクラブの見本そのものだった。

初代、高石義雄理事長のコース熱愛ぶりは凄く、雑草を見つけると同伴プレーヤーにも草抜きをさせたという。
3代目誠二理事長婦人・勝子は、クラブハウス内のアレンジメントを自ら買って出て、テーブルにはほうじ茶と
玄米茶を並べ、暑い夏日には首の後ろに当てる冷たいタオルを自分で配ったという逸話が残る。

つまり高石家の家風が田辺CCの伝統となったのである。

因に、廣野GCを去った名手・戸田藤一郎は、プロ生活の晩年をここで過ごしている。

「美しい日本のゴルフコース」より・・・


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