京都ゴルフ俱楽部・上賀茂コースの設計者はシェフィールドとある。終戦直後京都に
進駐していた米陸軍第一軍団軍政官シェフィールド大佐の名前である。
昭和20〜21年、米占領軍の高級将校宿舎は上賀茂の植物園近くにあった。ヘリコプターで
ゴルフ場用地を探しているとすぐ近くに深い森林と池を発見。「ここに造ろう」となった
その森は上賀茂神社の神森と京都大学演習林だった。
昭和21年11月15日起工式で、PD工事(占領軍発注工事)の伐採が始まった。
工事費用2億7000万円、受注は鹿島組(鹿島建設)。ところが吉田茂首相が
「米兵の遊びにそんな大金は出せない」とマッカーサー元帥に抗議。計画は挫折。
米軍も諦めない。特にシェフィールド大佐は、こーすのデザインまで描いて執念を
燃やした。彼が目をつけたのは、関東で秩父、小金井、観音崎などを手がけて
経験豊富な安達組(安達建設)の安達貞市だった。
安達が提案した工事総予算は僅か3000万円だった。
上賀茂神社も占領軍には勝てない。貸与という形で神社の一部を提供、
御神体の「神山(こうやま)」と葵祭の「御阿礼所(みあれどころ)」という神域を
抱えた、類まれなゴルフ場がうまれることとなった。
昭和23年1月15日、今でいう第3セクター方式で近畿観光設立(後に観光日本)、
初代社長は京都府知事だった。3月4日工事再開。第一回会員募集を始めた。
入会金3万円、法人会員制、市場で売買する会員権譲渡制という新機軸の募集だった。
現在の預託金制の先駆者である。
7月30日、第一軍の要請で、6ホールで開場。10月9ホール開場。
昭和24年8月14日、ようやく18ホールが揃った。芝は、元飛行場の高麗芝を
市松模様に貼り、ティーマーク、ホールカップは手作り。屑鉄がカネになる時代で、
盗まれないようにホールカップは毎晩倉庫に回収したという笑えない話も残る。
船山コース開場は、遥か遅れて昭和37年1月2日である。
「美しい日本のゴルフコース」より
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