霞ヶ関カンツリー倶楽部

西コース 6752y Par73

東コース 6907y Par72



西 OUT

西 IN

東 OUT

東 IN


ご老公「霞ヶ関カンツリー倶楽部」訪問同行記 2019


大正末期から昭和の初めまで、入間川を挟んだ埼玉県狭山丘陵と入間台地には、一面に松の平地林が続き、殆んど利用されることなく放置されていた。
平将門が跳梁跋扈していた時代の景色がそのままに置き忘れられていたと、想像して貰えばよい。松は、桐、樫、桧、榎の材のように建材としても家具の材料としても使えず、
伐根が難しいので耕作にも大邪魔者だった。

発智庄平翁という傑物
 
 昭和2年12月、そんな一角の埼玉県入間郡霞ヶ関村笠旛に、発智庄平という傑物が暮らしていた。先祖は信濃国発智村の豪族で、鎌倉時代には毎年鎌倉街道〜厚木街道を通って、
鎌倉幕府に参勤交代していた。笠旛はその中継地の一つで、初代発智太郎は、山国信濃に比べこの地の広闊さに心を奪われ本拠地とした。庄平翁は数えて27代だった。
27代700年間に築かれた所有地は50万坪ともいわれた。

庄平は埼玉師範出の教育家。単なる教師ではなく、武者小路実篤の“新しき村”(宮崎)を招致して第2の新しき村を開拓したり、道義の昂揚と産業経済の発展の両立を唱える思想家でもあった。
その教え子たちが、能登池畔(西コース12番付近)に翁の銅像を建て、その除幕式が行われた時、霞ヶ関CCの発起人の1人星野正三郎が参加していた。

 星野は、笠旛の広い平地林を見て、「ここにゴルフ場を造ったらどうか」と考えた。庄平翁に話すと大いに共鳴、翁もまた遊休山林の開発に頭を悩ましていたのである。
 星野は、話をゴルフ場に詳しい藤田欽哉に伝える。庄平翁は10万坪の土地の貸与を申し出て、計画は具体化する。藤田は、かねて駒沢村からの移転先に頭を悩ましていた
東京ゴルフ倶楽部に、計画を持ち込むつもりだった。しかし、この話はつまずく。東上線の粗末な電車で池袋から的場駅(現・霞ヶ関駅)まで1時間40分、そこから笠旛まで50分、
駅にはタクシーなし。「交通が悪すぎる」と断わられる。「資金が集らないときは、伐材の済んだ2万坪に芝を張って芝屋でも始めよう」と思ったと、藤田欽哉は書き残している。
 そしてその窮地を救ったのも、庄平翁による3万円の無償供与の申し出だった。18ホールのコース、クラブハウスが10万円で完成できようという時代の話である。

東コースは8人の分担設計で生まれた

 昭和4年10月6日、建設前18ホール。6600ヤード・パー70の計画だったコースは、6730ヤード・パー74とし実現、開場する。会員数(チャーターメンバー)310名、
発智庄平は、大谷光明、井上準之助、赤星四郎・六郎ら13名と共に名誉会員となる。東京GC(駒沢コース)等の著名ゴルファーは、この地位に格上げされていて、
実際に働いた一世代下の有力者たちは理事にずらり並んでいる。庄平の長男太郎、石井光次郎、藤田欽哉、清水揚之助といった名が並び、彼らが設計、建設の中心となり、赤星四郎、
井上信が指導に当たった。つまり霞ヶ関CC東コースは、会員たちの合議制、分担制で造られたコースとして生まれた。
 レイアウト分担は次の通り。
 井上 信  1、2、18番ホール
 赤星四郎  4、9、10、11番ホール
 石井光次郎 3、14、15番ホール
 清水揚之助 5、7、12、13番ホール
 藤田欽哉  6、8、16、17番ホール

合議制だから意見が合わずもめることもある。東コースのルーティングは、アウト1番がクラブハウスの前から右へ出て、2、3番と左廻り(逆時計廻り)に廻って9番でクラブハウス前に
戻ってくることになっている。この場合、設計セオリーでは、インコース10番ホールは、クラブハウス左前から出て、右廻り(時計廻り)に廻って18番でクラブハウス前に戻るのが、定石である。
 
設計時に、セオリー通りにカムイングインの時計廻りを主張したのが、赤星四郎だった。対して藤田欽哉は、赤星説では1、2、3番(現在の18、17、16番)付近の用地が狭少すぎる、
さらに18番ホールが現在の10番パー3とは逆に、クラブハウスに向って池越えすることになり、景観としても戦略性でも、コース内唯一の池の利用価値が大いに減殺されるとして反対した。

結局石井、赤星が現地で研究した結果、10番をパー3にして、11、12、13番を入れ替えプル方向(逆時計廻り)の現行のレイアウトに落ち着いた。
 危うく池越えの名ホール10番パー3が、幻と消えるところだったのだ。

なぜ“アリソンバンカー”

 東コースは、日本を代表する名コースである。長い間JGAのコースレートが、このコースのレート「73」を基準に査定されていたそうで、名コースの規範のような存在だった。
当然印象的なホールは多い。その中から4ホールを選ん だ。無論トップは、10番パー3だ。東コースのフラッグシップホールだ。

10番(CT177ヤード、RT156ヤード・パー3)C・H・アリソンが、世界でも1、2のウオーターホールだと賞讃したホールだ。東コースへ来たら、誰でもこのホールを忘れないだろう。
池越え、両側から見事な姿の大松が、池とその向うにやや高く掲げられたグリーンを飾っていて、まさに池上庭園の眺めだ。
しかしこのホールは、攻めればこわい。グリーン正面に大きくオーバーハングされた深いアリソンバンカーが口をあけているからだ。10番ホールがいかに恐れられたか、エピソードはいくつも残る。

 昭和30年代末期のある大学対抗競技だったか。その日は朝から雨、風の天候、1番からのスタートに比べ、池越え10番パー3は、条件が厳しすぎる、と特別ルールで、
インスタートは11番からと臨時に変更されたことがあった。これは例外かと思っていたら、父子2代の霞ヶ関CCメンバーである川田太三氏から「昭和52年の日本アマ(倉本昌弘優勝)以来
アマチュア公式競技では11番スタートになっている」という話が出た。「どうしてですか」「可哀想だからだよ」と、川田氏は真顔だった。

それほど10番パー3は恐れられていた、ということだろう。川田氏によると「中村寅吉、小野光一が優勝したカナダ杯の頃は、180ヤード、バッフィで打っていた。バッフィじゃないと面白くないよ」
ということだった。今は、CTから177ヤード、アマチュアで5番アイアン、プロなら7番アイアンだそうだ。バッフィで打っていた頃は、クラブ選手権でも、
10番、11番(436Y・P4)12番(464Y・P4)で2オーバー以内なら優勝候補といわれていたとか。東コースのアーメンコーナーだったわけだ。

10番・パー3のどこが恐いか。平成7年日本オープン(伊沢利光優勝)最終日ジャンボ尾崎が脱出に失敗、優勝を逃がす原因となった正面の深いバンカー、
“アリソンバンカー”が、美しい造型ながら戦略的には厳しいトラップ(穽)となって待ち構えているからだ。では、このコースの設計者でもないC・H・アリソンの名がつけられているのはなぜか。
昭和5年12月19日、すぐ近く膝折村に工事中の東京ゴルフ倶楽部朝霞コースを設計の為来日中のアリソンが、赤星四郎、六郎に案内され、開場間もない東コースを視察している。
その際18ホールそれぞれに改造の助言している。特に10番パー3については「若し之に多少の改造を施せば、ショートホールとして、世界的最優秀ホールの1つになるだろう」として、
次の点を指摘している。(1)グリーン前にバンカーを作り、(2)グリーンの奥行きを8ヤード縮めること(3)右手のバンカーの前の小高い縁を除き、そのバンカーの
前方を低めて砂地を見せるようにすること。こうして出来上がったのが、現在10番パー3の正面に君臨している巨大バンカーだ。

開場当時、10番ホールのヤーデージは、188ヤードである。当時のパーシモンヘッドのウッドクラブなら、ドライバーの飛距離だ。いかに難ホールだったか。
その恐ろしさは、アリソン設計の川奈・富士C・廣野GCのバンカーを上回っていた。著名度もこちらが上、というわけで、このバンカーが、“アリソンバンカー”の代名詞になってしまったのである。
 10番・パー3には、もう1つの謎が残る。以上書いたのは、10番ホールの池越え右グリーンのことだ。10番には、もう1つ右グリーンとは別に松の木々でセパレートされた左グリーンがあるのだ。
いや正確にいえば、10番ホールとは、ティもグリーンも全く別の、2本の池越えパー3を並べた特異なホールである。左10番グリーンもまた、右10番に劣らず景観としてもよく、
攻めても緊張する一級品だ。こういうホールは、2グリーンというより2本立ホールとでもいうべきだろうか。

4番(CT155Y、RT136Y・P3)にしろ7番(CT211Y、RT188Y・P3)にしろ、東コースのパー3は独特な発想と構図で造られている。
4番は、正面の平坦地に置かれた低い右グリーンに対して、左グリーンは約90度左へ方向を変えた高い砲台グリーンという構図。7番は、右グリーンを攻めるラインと
左グリーンを攻めるラインが交叉するように、別々のティとグリーンが置かれている。霞ヶ関CC東・西コースは、日本で1番早く2グリーンを採用した。
 しかし10番、4番、7番のパー3だけは、“単なる2グリーンとは言わせないぞ”といいた気な、1グリーン主義へのこだわりが残されていて、凄い。

松の平地林に名コース続々

 閑話休題『霞ヶ関廿五年史』75ページに古い人物写真が掲載されている。野袴(タツツケハカマ)に襷がけ、鳥打帽という和服姿で
ドライバーを打とうとしている人物、発智庄平翁である。廿五年史は、この装立ちを「翁はゴルフ日本化の先端と考え、昔の武士が剣を使うが如く、
和服姿で(国粋的自信ある風格で)ゴルフを悠々楽しんで居られた」と記録している。庄平翁は、ゴルフ道は日本の武士道に通ずると礼讃、
民主的にパブリックコースを作り、大衆にも開放せよと主張していたという。その主張を詠んだ漢詩「互流普」歌が、廿五年史78ページに残されている。

ゴルフをパブリックコースに、という翁の志は、長男発智太郎に受け継がれ、太郎は、隣接の所有地に霞ヶ関パブリックの建設を始めるが失敗、
救済するために秩父CCが結成され、さらに朝霞コースを陸軍に接収されて行き場を失った東京ゴルフ倶楽部と合併、今日に至っている。

代表的名門の霞ヶ関CCと東京GCが、垣根1つで隣合っているのは以上の事情からである。
 霞ヶ関CCの成功は、やがて入間台地に飯能G、日高CC、武蔵CC笹井、狭山丘陵に狭山G、武蔵CC豊岡といった名コースが生まれる契機となった。

 西コースは、井上誠一設計、川田太三改造設計の名コースで、最近は、55%×47%で東コースよりも人気があるそうだ。別の機会に詳しく紹介したい。
                        

田野辺 薫氏の名門コースめぐりより・・・