昭和33年、岐阜県下にはまだゴルフ場はない。その年(昭和28年との記録も残る)、岐阜市長長良福光の
長良川畔の県営グラウンド(現メモリアルセンター)内に、9ホールの練習場コースが生まれた。長良川カントリー倶楽部の前身、
岐阜県ゴルフ場第一号である。まだゴルフ人口は僅か、熱心な上級者は名古屋、京都、大阪、遠くは東京へ出かけた時代だ。
昭和35年になると、岐阜CCが生まれた。刺激されたか、長良川の練習コースは、より本格的なコースをめざして岐阜の市街地に
一番近い台地≠求めて、岐阜市長良雄総北裏山7万坪を確保する。清流長良川を眼下に岐阜城の金華山を南に眺め、まさに岐阜の
中庭コース≠ノふさわしい地の利だったと年史は振り返っている。設計は、すでに西日本隋一の人気者・上田治。
計画の中心は、渡辺甚吉。ゴルフ経験20年以上、名門程ヶ谷CC(神奈川県横浜)会員で、シングルハンディキャップ。練習コース誕生以来の
理事長だった。
岐阜一番の素封家「織甚さん」の2代目で生来振舞いが大きい。例えば英国留学に際しては、帰国後の家を考え、少壮建築家を
1年間帯同留学させ、その結果建てたチューダー様式洋館は後に、スリランカ大使公邸になっているという逸話がある。公的には、戦前は
多額納税による勅任貴族院議員、戦後派参議院議員を務めた。また昭和7年、岐阜薬事専門学校(現・薬科大学)設立に際しては、建設費
全額を寄付するなど貢献が大きかった。
雄総の新コースは、昭和37年2月に着工、昭和38年5月3日、9ホール・2235ヤード・パー62となる。パー3が10ホール、パー4が8ホールの
珍しい展開で、ブラインドがないのが特徴。狭い用地に地形を生かした、秀作の小品≠ナある。
(田野辺 薫氏の「ゴルフの歴史を歩こう。」から) |