城陽カントリー倶楽部

東コース 6998y(6808y)/6525y Par72


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プロローグ・・・・・“アリソンの孫”

003年(平成15年)正月、筆者は、あるゴルフ雑誌の「日本のメンバーシップ・古典派を訪ねて(第3回)」として、
「漂う名門の雰囲気、品格」“アリソンの孫”城陽カントリー倶楽部」という記事を発表している。
 少し長いが、その導入部を紹介する。城陽CCをプレーしたのは、その一ヶ月前2002年12月3日の経験だった。
「城陽CCのプレーを終わった後、一種の豊饒感を覚えた。
 それは、日本のゴルフ場が、昭和30年代、まだゴルフ人口が100万人に達しない時代の中に遺き忘れてきた名門倶楽部の雰囲気だった。
 中庭を囲んだクラブハウスは、36ホールに対応するためにかなりの広さと大きさなのだが、フロントからスタートまで、誰も走らない、声高に話す人もいない。
食堂は静かだが人数は多い。その人たちの表情は皆、満ち足りていて穏やかである。」
 
 城陽CCを“アリソンの孫”と言ったのは、ある程度批判覚悟だった。日本のゴルフ場で、アリソンの子といえば、その直々の設計による廣野ゴルフ倶楽部と
川奈ホテル富士コースである。“孫”というなら、その二つのコースの子か、あるいは廣野GCの造成時に、アリソンの鞄を持ってその設計を学んだ
上田治設計のコースのどちらかがふさわしいだろう。しかし城陽CCはそのどちらでもない。それでもなぜ“孫”なのか。

 城陽CCは昭和33年9月東コース着工だが、それまでの京都には、本格的なコース、名門というにふさわしいゴルフ場がなかった。
兵庫県下には、廣野GCを筆頭に鳴尾GC、神戸GC、西宮GCがあり、大阪には茨木CCがある。「京都にも是非、本格派・名門をー」という気運が強くなっていた。
昭和33年9月11日、経営母体の日本観光ゴルフ叶ン立。社長・寺田甚吉。
宇治茶で有名な宇治町に隣接する久世郡城陽町寺田奥山の55万坪を買収。旧陸軍長池演習場に続く南面のゆるやかな傾斜地だった。
「55万坪もあるなら36ホール造ろう」となった。

京都にも名門倶楽部を。手本は廣野ゴルフ倶楽部

城陽CCの創生には、二人のキーマンがいた。初代社長、キャプテンの寺田甚吉とコース設計の佐藤儀一である。
 寺田は、自らの土地を投じて、戦前から現在も続く大阪GC(淡輪コース)を創立した人。その後関西圏のゴルフ場設立の多くに貢献した功労者、コース設計も。
後に南海電鉄社長となる。城陽CCでは、そのゴルフ場創建の経験を評価して経営トップに据えた。

寺田がめざしたのは、廣野GCだったようだ。コース設計の佐藤儀一は、日本アマに4勝(3連勝を含む)、日本オープンでもアマチュアながら
プロの宮本留吉についで2位、“第二の赤星六郎”といわれた。
寺田が買ったのは、廣野GCのクラブ選手権12回優勝という佐藤儀一のキャリアだった筈だ。
彼ならアリソン設計のDNAを受け継いでいるに違いないと判断したのだ。

因みに、寺田は、大阪GC淡輪コースでは、アリソンの子上田治を、そして城陽CCでアリソンの孫を起用したことになる。
その効果は、廣野GCの5番、10番のアリソンバンカーを彷彿させる彫の深いバンカーが、戦略的に配置され、城陽CCの一番の魅力となって現れている。
寺田は、クラブハウス設計にも、廣野GCと同じ渡辺節を選んでいる。建物も当初の計画では、廣野GCに似たスペイン風2階建だったが、
「京都には日本風が似合う…」という寺田二世の意見で、和洋折衷の半2階式に変えたという話がある。
玄関から食堂まで平屋建の感覚で、そこには平安時代の匂いさえ漂う日本的古風なアメニティが感じられ、それが京都によく似合っていた。

寺田は、36ホールが完成するまでの3年間、コース所在地で、(自分の姓と同じ)寺田地区の豆腐屋の2階に下宿して、
ゴム長、作業衣仕度でコースづくりに熱中、17年間、キャプテン、社長を勤め、城陽CCのロゴ、エンブレムまで彼の図案であった。

格式を尊ぶ城陽CCらしい逸話も残る。昭和34年開場当時の城陽CCの食堂では、うどん、そばの汁物は出さなかった。
白い服のボーイがスープを注ぎ、メインディッシュのメニューを出す正式ディナーだったという。
英、米の名門倶楽部では、今でもつづく格式高いマナーである。

アプローチの名手 佐藤儀一のグリーン、グリーンバンカー設計

城陽CC東コースの設計には、特長がある。コースは、初めから高麗の1グリーンだった。昭和30〜40年は、井上誠一、上田治、
富沢誠造など殆んど例外なく2グリーンに造っていた。1グリーンで生れた戦前コースでさえ、
2グリーンにつくり変えられていた時代だ。

その中で佐藤儀一のコースは、広い第1打からグリーンへ向ってターゲットをしぼり上げてゆく、贅肉のないフェアウェイが延びていて、
その頂点に深いサンドバンカーを据えた小ぶりな砲台グリーンが待ち構えている、そんな設計美学だった。
その見本が、松と広葉樹林を両側に伴走させながらグリーンへしぼり上げてゆく7番・パー5である。グリーンの大きさは、
平均して僅か400平方メートル、小さなサンドバンカーが支えているのだから、当然のこと高く揚げた砲台グリーンとなる。
その典型が、東コース18番ホールである。

 18番(329ヤード・パー4)のグリーンは、平坦なフェアウェイの先に突兀として高く約4メートルせり上っている。
第2打で捉りやすい右側の二つのバンカーは、深さ約2メートル。これでも浅いくらいだ。
左側のバンカーはもっと深い。グリーン面まで4メートル、30度のスロープを描く長い砂渡りをもったトラップだ。
入れてしまったら、1打脱出は無理だろう。入れてみて、2度ぐらい打ってみるのも、
佐藤儀一設計に対する“武士の礼法”というものだろうか。

 但し佐藤儀一は、武骨一辺倒ではない。カリフォルニア大学美術科留学という教養が生み出すのか、
背景の森、丘、ホール間をセパレートする疎林の美しさは、プレーを終った後一種の豊饒感を覚えさせるほどだ。
またグリーン造型、グリーンバンカーの位置と造型をめぐって他にない評価を感じるのは「アプローチの名手」と謳われた
ゲーム感覚の卓技さを反映したものであろう。

 
 [追記]  城陽CC東コースは、平成15年高麗グリーン1グリーンをベント1グリーンに改造している。
その際、“佐藤儀一設計の原図を変えないようにとの条件下で、平均150平方メートル拡張、
580平方メートル〜600平方メートルの広さとなった”そうである。

所在地      京都府城陽市寺田奥山1−46
コース      (東) 18ホール・6808ヤード・パー72
           (西) 18ホール・6352ヤード・パー71
コースレート   (東)72.7、(西)69.8
設計者      佐藤儀一
開場日      昭和34年17月23日

「田野辺 薫氏の名門コースめぐり」より・・・