宇部72カントリークラブ 阿知須コース

7170y(M Green) / 6821y(R Green) Par73


 


昭和30〜40年代には「ゴルフ場列島」といわれるほどゴルフ場新設が増えた。地方の小都市までが繁栄の
証明のようにゴルフ場を欲しがった。そのなかで宇部72カントリークラブの創業は、戦後経済史に名を残した
一人の有名実業家の企業哲学に発している点で、独特である。

中安閑一 1895年(明治28年)山口県宇部市生まれ。岸信介元首相とは、旧制山口中学からの親友、
東京遊学中は、岸夫人の高価な着物を質草に借金をした仲だったと、自伝で恐縮しているとか。戦後戦犯で
囚われた岸元総理の救援本部を設置して解放運動に奔命、またGHQの集中排除法で準財閥に指定された
宇部興産の指定解除にも走り回っている。

中安は、大正7年旧制東京高等工業機械科卒業と同時に三菱重工神戸造船所入社、大正12年宇部セメント
(現・宇部興産)入社。以後宇部と宇部興産を離れることはなかった。

宇部興産の経営理念は「企業は地元住民ともども繁栄を図らねばならない」だった。中安の企業哲学も同じだった。

昭和30年代に入る。経済も生活も好調。中安の脳裏で、市民が楽しめるスポーツの場としてのゴルフ場の
イメージが膨らみ、それを実現する時が近づいていた。中安には、候補地があった。吉敷郡阿知須町の西北部、
源田畑にひろがる松林の丘陵地だ。彼は、自ら山に入り谷を下って踏査、その結果を参考に書いた仮の設計図が
100数枚にふえていたという。そのようにして中安は、国内はもちろん英米の名コースも訪ねて、彼自身の中に
理想とするコースをつくりあげていたのだ。

昭和34年4月、阿知須の現地に、実際に杭を打ってのレイアウト実測が始まった。昭和34年10月23日起工式。
設計家上田治の意見を求めたというが、事実上の設計、監督は中安。1年後の昭和35年10月29日9ホールを仮開場。
昭和37年10月13日18ホール・7095ヤード・パー73を正式開場。「かつては利用価値のないやせ地が、車の通り抜け
すら満足にできなかった僻地の源田地区が、ゴルフ場の出現によって世に出たといっても過言ではなかろう」と会報
「宇部」は誇らしげである。

昭和44年6月7日、万年池をめぐるレークサイドコースの、万年池東コース18ホール・6938ヤード・パー72を本開場。

昭和50年10月1日万年池の西北にひろがる旧宇部不動産牧場跡に、万年池西コース18ホール・6629ヤード・
パー72を本開場。

万年池東・西コースは、ともに設計者中安閑一 である。中安理事長はかねて東西の名コースを訪ねて設計術を
「独学」。施工の大成建設設計部が助けたようだ。阿知須コースは公表で設計・上田治だが、実質的に
中安設計である。なお以上3コースとも、開場式テープカットには、岸信介は率先参加している。

平成11年6月、宇部カントリー倶楽部を宇部72カントリークラブに改称。

平成12年11月1日江畑池コース18ホール・6981ヤード・パー72開場。設計ロバート・ボン・ヘギー。
なお昭和51年〜平成1年までJPGA競技ペプシウィルソン宇部興産オープンを開催していた。

(田野辺 薫氏の「ゴルフの歴史を歩こう。」から)


阿知須コース訪問記

新大阪を出る頃は曇り空、岡山を過ぎた頃から車窓の外はポツポツと雨。
徳山駅に到着した時には本振りで、山陽道を走る頃には前が見難いくらいのジャジャ振りでした。

車中は非常に重〜い雰囲気で、雨男(なんでしょう)の私は一人恐縮していました。


高知、福岡、佐賀と他府県ナンバーの車が続々と到着します。どの方々もこの雨を気にせず?
フロントで受付を済ませてロッカーで着替え始めます。

剛の者はあの雨の中パッテイングの練習を・・・ 恐るべし!オヤジパワー
って、俺らもオヤジやけど・・・(笑;)


ラウンドが終ると地元の肴で飲み会です。これも楽しみの一つです。
当日は名物「味噌おでん」を賞味しましたが、大阪風に言えば「どて焼き」ですかね〜。


これで徳山を後にするのですが、最後にとんでもない事に気付きました。
画像は徳山駅前の大通り?なんですが、何と!その交差点に信号が有りません・・・(驚;)

大阪では考えられない光景でした・・・(汗;)


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