下関ゴルフ倶楽部
A 7002y(6525y) Par72
B 6586y(6186y) Par72
天才児・中部銀次郎のホームコース 昭和35年からの20年は、下関ゴルフ倶楽部の名が、日本ゴルフ競技史に、光彩を放ちつづけた時代だった。 下関GCができるまで、3兄弟は、下関海峡を渡って父のホームコース門司GCでプレーしていた。一次郎が、日本アマ初優勝を 1、2番ホールに元寇の遺跡 現在では、下関GCに行くには、車なら中国自動車道下関ICで下りて22キロ、電車なら新幹線新下関駅からタクシーで30分、5000円と 鎌倉時代前期、この地の青山城に黒井氏が拠を構えたので、この地名が残っている。また14番ホール沿いにつづく巨松の並木は、 クラブハウスにも、松原の歴史的な記憶が残る。下関GCのロッカールームに入ったゲストプレーヤーは入った途端、度肝を抜かれる そして弘安4年、八ヶ浜は歴史的な修羅場となる。元寇の役の原因となる悲劇が起きる。建治元年、降伏を求めた元の 上田治が発見した砂浜と巨松群 下関周辺のゴルフ場第1号は、昭和27年12月、八ヶ浜に近い石堂山の麓に開場した川棚温泉ゴルフ倶楽部である。3ホールだった。 黒井村は、歴史ある土地柄である。西洋人が女連れで遊ぶゴルフは黒井村の歴史を汚すと、巨松を伐ることへの反対が強く、 「海風」という自然の戦略性 18ホールズは、日本海沿いの深い松林に護られた丘の上に展開している。1番、10番ホールは、同じ地点から背中合せに コースは、アウトコースは、ティからグリーンまで15メートルを打ち下してゆく6番ホール、10メートルを打ち上げる7番ホールなど 250平方メートルと極端に小さい13番のように、総じてグリーンが小さく、深いバンカーに守られた砲台型が多いことも、 所在地 山口県下関市豊浦町大字黒井850 設計者 上田 治 田野辺 薫氏より・・・ |
新・下関GC訪問記 帰りは広島駅で途中下車(汗;)して中国地方恒例の?「みっちゃん」でお好み焼きです! 下関GC訪問記 新大阪駅6時発の「みずほ601号」に乗れば、途中広島駅で乗り換えて8時36分に新下関駅到着です。そこからゴルフ場までは 当日のメンバーは3名が新下関に前日入り、1名が山口県在住の方。で、スタートの時間の鍵は私が握っていました(汗;) 1名が大阪中央卸市場にお勤めで非常に朝が早く、出来れば早く帰阪したいとの事を聞いていたので、私が早く到着する 第一案は20時40分発の「ひかり443号」に乗って新下関駅着が23時27分。これだと交通費以外に宿泊費も掛かるし、 第二案は22時26分の「のぞみ125号」に乗って広島駅着が23時54分。6時05分発の「こだま821号」に乗って新下関駅到着が 第三案は大阪駅23時30分発のJR高速バスで広島駅到着が5時55分。6時05分発の「こだま821号」は無理としても、6時50分発の 津久野駅から大阪駅まで¥380、JR高速バスで広島駅まで¥5700、広島駅から新下関駅までが¥5670で、計¥11750。 バスではウトウトしか出来ませんでしたが、広島駅の売店で朝食を購入する時間が有ったほどの余裕で6時05分発の
新下関駅近くのビジネスホテルで前日入りした3名と合流し、タクシーでコースに向います。往復のお願いなのでメーターも のどかな田舎道を走ってようやく到着!です。本当にのどかです・・・ 先ずは中部銀次郎氏のお父上であられる、中部利三郎氏の銅像の前で頭を垂れてクラブハウスに・・・ フロントで受付けを済ませ、ロッカールームに入ってビックリ!
2本の太い松の木の幹が有ります。伐らずに残した、苦心の名残り松だそうです。
コースは昭和31年(って、私は未だ生まれていません・・・)開場です。 名実共に中国地方を代表する名門コースですが、そのネックは高麗グリーンにあるのでしょうか? コース側もそれは百も承知!で、以前ベントグリーンに挑戦したそうですが枯れてしまい上手く行かなかった 上の画像は16番ホールですが、左側の白いシートを被せたグリーンがテスト中のバミューダ芝のグリーンです。 もしこの試みが成功して素晴らしいパッテイングクオリティーのグリーンを得た時、このコースは新たに生まれ そう考えると、時代に即したコース改造は必修なのかも知れませんね! |