大井とんぼがオサムちゃん扱いする治ちゃんとは?・・・
日本を代表するコース設計家といわれている上田 治氏が没したのは71歳の昭和55年だった。「東の井上誠一、西の上田 治」あるいは
「柔の井上、剛の上田」と伝えられているとおり、井上氏とともに並び称されるコース造りの巨匠である。大阪・茨木生まれの上田氏は、
16歳のときに100m背泳競技の日本記録を樹立し、大正15年、20歳のときに極東オリンピック上海大会(現・アジア大会の前身)
にも派遣された血気盛んなスポーツマンだったが、昭和6年に京都大学農学部へ進学したことによってその後の人生が一転し、
コース設計に携わることに繋がったのである。京大に在学している時に、英国の著名なコース設計家C・H・アリソンが招聘されて
コース設計図面を書いたといわれている日本屈指の名門、廣野ゴルフ倶楽部の建設現場監督補佐として農学部で学んだ知識を
見込まれて工事に従事したことがコース設計家へのスタートだった。
如何にも柔らかを感じさせる?井上氏設計のグリーン周りです。(桑名CC)
昭和6年に京大を卒業した上田氏は、翌年に開場した廣野GCのグリーンキーパーとして勤める傍ら、
昭和9年には若干27歳で初めてコース設計を行った門司ゴルフ倶楽部を世に送り出している。
この第一作目の門司GCの設計では、もちろんアリソンの知遇を得た恩恵が大きかったことは、まず間違いないだろう。
アリソン氏の影響受けすぎ!?なバンカー郡です・・・(門司GC)
大井とんぼがオサムちゃん扱いする治ちゃんとは?・・・2
その後、昭和11年に開催されたベルリンオリンピック競技の審判員として訪れたドイツからの帰途に、聖地スコットランドとイングランド、
さらに世界のゴルフ大国アメリカに渡るなど、先進国のゴルフ事情視察を終えて勇躍帰国。アリソンとの出逢いに加え、
これら一連の貴重な欧米のゴルフ事情視察に恵まれたことを活かし、第2作目として手掛けたのが和泉市の丘陵に
創設された信太山ゴルフ倶楽部だったが、戦時下の軍部に接収され昭和19年に閉鎖の憂き目に遭ったのが惜しまれる。
そして第3作目が、「東の川奈、西の淡ノ輪」と謳われたシーサイドコースの代表格である大阪ゴルフクラブ。
信太山ゴルフ倶楽部が現存すれば当方の家から非常に近い(車で約15分)ゴルフ場
だったのですが、現在は陸上自衛隊信太山駐屯地となっています。知り合いがここで
駐屯していますが、元がゴルフ場だったって事等は全く知らないそうです。
その後、廣野GCの支配人に就任した上田氏は、下記の表のとおり、生涯をかけて関西圏を中心に数々の名門倶楽部(クラブ)を含め
54ヶ所に及ぶコース設計を手がけ、とくに昭和30年代には30数か所という、まさに超人的な実績を遺している。この数字を見れば
分かるが、桁外れた設計の力量を認めて依頼した施主がいかに多かったかを示している。晩年の上田氏のコース造りにかける
情熱には驚嘆するばかりである。しかも、豪放磊落な性格も手伝って頼まれたコース設計はほとんど断ったことがなく、施主と
コース造りの熟議を重ねながら、且つ10代の頃に水泳で鍛えぬいた強靭な体力を生かして現場を隅々まで歩きまわり、
昔からそこにあるがままの自然の地形をしっかり頭に叩き込み込んで詳細に設計図面を描いた上に、造成から細部の
造形仕上げに至るまで幾度も現場に足を運びながら、工事現場の人たち対しては決して妥協を許さず完成させたと伝えられている。
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遺作コースのなかには、ベントグリーンへの切り替えや、それに伴う一部ホールの改造を行った所もあるが、
日本を代表する設計家がゴルファーに遺した”上田イズム”は、今も守られている。だから、匠のワザを
遺憾なく発揮して世を去った名匠の遺作コースをプレーする時は日頃と同じ様なスコアメイクだけに
集中するのではなく、施主からコースレイアウトを託された元から在ったままの自然の地形との融合を
どのように図り、同時に大切な戦略性や景観づくりの創出に如何に工夫を凝らしているかといった点などを
連想しながらラウンドすれば、また新しい発見に出逢えるのではないだろうか。
プレッシャーを与える谷や池越え、行く手を遮る立木などを取り入れた設計意図も、恐らく納得できることだろう。
(このコーナーは「Golf & Golf」誌のVOL.341より引用致しました)
フェアウェイ中央に鎮座する邪魔な木!(小野ゴルフ倶楽部) 治氏のコースにはこんなロケーションが
ゴロゴロしています。
右はフェアウェイ中央にあった木を伐採した痕 下は新たに設置したフェアウェイバンカー 右下はフェアウェイに作った3連池 |
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上田イズム
「門司ゴルフ倶楽部」のクラブハウスが・・・
「門司ゴルフ倶楽部」のA・レーモンド氏設計のクラブハウスが国の登録有形文化財になったそうです。
1番ティーや練習グリーンから眺めるクラブハウスの画像は多いですが、正面や右からはフェアウェイからしか
お目にかかれません。
当クラブハウスは9番ホールから離れているためにOUTスタートはハウス内で |
「小野東洋ゴルフ倶楽部」のモンスター?ミドルホール
2011年の日本プロ選手権は兵庫県の「小野東洋ゴルフ倶楽部」で開催されます。従来は7233y
Par72ですが、 上の画像がNo,15の全景ですが、ティーショットはそれ程プレッシャー無く?打てると思いますが、 セカンドは少しでも短いクラブを持ちたいでしょうから、やはり飛ばしたいでしょう。それが力みとならねば セカンド以降もダラダラの打ち上げが続くので、実質的には530y超のミドルホールかも パー72に拘るのでは無く、このような設定で、クラブとボールの進歩で蹂躙されている古いゴルフコースも、 2011年 日本プロ選手権が終了しました。優勝者のスコアは-9でしたが、アンダーパーはたったの6名 トーナメントの決勝ラウンドの2日間をTVウオッチしましたが、3日目はアベレージが4.708で、ランク1位。 このホールは本来はロングホールなので、サードショットは短いクラブで打ってきます。そのため? 3日目、4日目共にティーグラウンドは一番上の画像に見える白マークからで、最終組のパーティーの 3日目 松村プロ 残り距離 約250y #3W 4日目 松村プロ 残り距離 約223y #5W となっていたようです。 正に! 小野東洋のモンスターミドルホール! |