室蘭ゴルフ倶楽部

6825y(6331y) Par72



昭和4年、室蘭湾外イタンキ浜にゴルフコースを造る計画で、イタンキゴルフクラブを設立。その中に海軍機関中将・
水谷叔彦と日本製鋼所取締役・一色虎児がいた。水谷は、明治29年英国の海軍大学に留学中、ゴルフに親しみ、
日本人ゴルファー第1号、一色は、大正5年日本人として初めて日本アマ選手権に参加。

翌昭和5年5月、イタンキ浜の私有地20万坪を借り、3072ヤード・パー36の9ホールが実現する。
波飛沫を直にかぶるイタンキ浜コースは、屠場もある牧場で、放牧の牛から守るためにグリーンは針金囲い、
バンカーはすべて天然の風穴、1番ホールは断崖上から真下のグリーンへ打ち下ろす豪快ホールだった。
設計は、日本製鋼所の萩原英一。素人だったが、霞ヶ関CCの赤星四郎、藤田欣哉、井上誠一に教えを請い、
開場した"イタンキ"は、日本一のシーサイドコースだと評判が上がった。昭和6年、室蘭ゴルフ倶楽部と改称。

それから10余年、昭和16年12月開戦、軍はクラブハウスを接収、イタンキ浜には陣地が敷かれた。
20年8月15日敗戦。軍が去った後には砲台とタコツボと塹壕と、2、3番グリーンと8番フェアウェイだけが残った。

戦後再建は昭和29年9月、テンポラリーグリーンの9ホールで再開場。昭和32年9月23日、元競馬場跡2万坪を
借地し、18ホールを完成。

復活も束の間、昭和36年急速な工業都市化で、室蘭市がコース移転を要請。等価交換現在地に
移転した。標高140メートル、白鳥の飛来する室蘭市を一望する丘陵地で、白鳥コースと命名された。
昭和40年8月31日35年続イタンキコース閉場。3日後、白鳥コースのアウト9ホールが仮開場。
41年4月22日18ホール・6819ヤード・パー72が揃った。基本設計・井上誠一、デザインはイタンキ浜を
35年間管理、芝に詳しい萩原英一。

「美しい日本のゴルフコース」より・・・

OUT

IN