芦屋カンツリー俱楽部

6451y(6254y) Par72



昭和23年頃、まだ敗戦の痛手も癒しきれぬ時だ。芦屋市は早くも国際都市構想の一環として「西の軽井沢」計画を
進めていた。

その動きを発起人のひとり渡辺忠雄(元三和銀行頭取)は「私の山手町の家のすぐ後ろの天神山にゴルフ場を
造る話が持ち上がった」と事もなげに語っている。誘われて廣野GCの高畑誠一、松岡潤吉、鳴尾GCのクレーン兄弟も
参加するが、結局岩石が多く、用地も7〜9ホール分と狭いので断念する。第2候補のお多福山麓花原(現在地)が
見つかるのは偶然からだった。

ひとつは芦有道路の調査チームが道に迷ってお多福山頂から麓の雄大なスロープを発見したという説。もう一つは
芦屋郊外で病気療養中だった有力政治家・増田甲子七が「ここにゴルフ場を造ったらすばらしいコースになる」と
示唆したとか、両説とも50年史に併記されている。

25年6月までに用地25万坪を確保。川奈ホテルゴルフコースの経験を持つ大成建設と契約。10月着工。
設計は同社保田与天。鳴尾GC出のプロ・福井八十八が助けた。

設計者二名は、山の中に、電灯も暖房もない山小屋をつくり「紫徳庵」と称して痩せ我慢しながら達成に努めた。

昭和26年7月、社団法人認可。11月クラブハウスが先に落成。翌27年8月17日待望の9ホールが開場。
18ホールが揃うのは11月である。

アウト3380yヤード・パー37、イン3380y・パー37、計6760y・パー74。「魅力溢れる山岳コースを造れた」と
50年史は、先人達を讃えているが、発起人の渡辺忠雄は「一番ホールから胸突き八丁の急斜面にの打ち上げ
だったと正直である。

しかし昭和35年アマチュアの名手・佐藤儀一の、開場以来のホールルートを逆回りにするという大胆発想による
改造で、9ホールあった打ち上げホールは9ホールの打ち下ろしホールに変身、現在のコース展開の
原型が生まれた。

「美しい日本のゴルフコース」より・・・

OUT

IN