緑ヶ丘カンツリークラブ

6809y(6136y) Par72


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昭和34年11月8日、緑ヶ丘カンツリークラブは、パブリックで発足した。中部地区では7番目、パブリックでは
森林公園ゴルフ場に次いで2番目である。しかし緑ヶ丘CCは、個人が個人所有地に実現したパブリックコースとして
特記される資格があるだろう。

創業者・阿部広三郎、明治30年愛知県神守村(現・津島市)生まれ。16歳で名古屋の木材問屋・羽州屋に丁稚奉公。
さらに大手の山二木材でも丁稚奉公。大正7年20歳で名古屋野砲第3連隊に入隊。模範兵となり阿部信行部隊長
(後に首相)従卒となる。この頃から、独自の人心収らん術を発揮。大正12年26歳、阿部製材所で独立。合板部を設置、
合板輸出を始める。昭和14年、43歳。日中戦争で内需が逼迫、軍需が膨らみ上海に揚子江木材、東満州東興木材を
設立、軍需合板を中心に馬の鞍、小銃の銃床まで製造。阿部は、軍用機で内地と中国を往復したという。

昭和20年8月終戦。中国の二つの会社を含め資産2億円を失う。終戦直前、銃弾の信管という場違いの製造
命令に窮した中京時計メーカーのビッグ3、明治時計を頼まれて継承したのが幸い、戦後中京財界で名を上げる。

さらに昭和25年10月30日、松坂屋、豊田グループが各々1000万円を出資、資本金5000万円、会長・豊田利三郎、
社長・佐々部晩穂、副社長・阿部広三郎の東洋ブライウッド(株)を創立する。中京財界の重鎮を揃えた、米国
復興内需向け高級合板の製造輸出を目的とした企業だった。

緑ヶ丘CCは、以上のような恐れを知らず時代の需要を先取りしてきた豪気な人物、阿部広三郎をバックに生まれた。

場所は、名古屋の栄から車で25分、守山区吉根の緑地公園の東隣の25万坪、緑地公園の池越えに栄通りの
テレビ塔、振り返れば樹林越えに遠くアルプスの山並みの頂きが遠望された。設計者の上田治に「めぐまれた
美しい風致に、私の設計意欲が刺激された」といわせたこのゆるやかな丘陵地は、もとは阿部個人が、一宮市の
林紡績から頼まれて買った土地だった。住宅地にする計画だったが、守山市が、家が増えると学校も増やす
ことになると渋ったのでゴルフ場にしたという。

なぜパブリックなのか。ゴルフ好きの阿部は「米国ではパブリックコースが多い。家族連れで楽しむのが常識だ。
私は大衆のものとしてやりたい、不結果に終っても自分の土地だから・・・」と語っている。

眺望のいいコースは「打ち下ろしホールが多い」と喜ばれた。上田治も「ティからグリーンが見える」設計に重点を
置いたとしている。ただし「無理なグリーンオンは避けるべし」(中村寅吉プロ)という意見も。

昭和34年11月8日、18ホール・6800ヤード・パー72を、パブリック制で開場。昭和39年3月会員制に移行。

(田野辺 薫氏の「ゴルフの歴史を歩こう。」から)