茨城ゴルフ倶楽部 

西コース 7095y(B Green 6783y) Par72

東コース 7336y(7061y) Par72


西コース(B Green)

OUT

IN

東コース

OUT

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遅きに失した?日本オープン開催
 
 今年10月、茨城ゴルフ倶楽部・東コースで日本オープン選手権が開催される。初めての開催である。
18ホール・7134ヤード・パー72、コースレート73.3。設計上田治。
どこから見ても一級品である。それが78回目の開催コースとは些か遅かったという印象も残るが、名匠上田治が拘って残した唯一の
関東圏内での平坦なチャンピオンコースだ。どういう結果が出るか、期待は大きい。
 
 ゴルフ場建設大手“安達建設”の誕生
  
 茨城ゴルフ倶楽部は、経営母体日勧興業の親会社でゴルフ場建設の大先達安達建設が拘って造ったチャンピオンシップコースである。
さらに設計者上田治にとっても珍しいタイプの18ホールズである。
 安達建設の元祖は、明治18年設立の安達幸三郎商店。以後安達商会、安達組と続いて昭和25年安達建設に改称、
仕事は造林、造園事業万般で、銀座1〜8丁目の街頭に流行歌『東京行進曲』に唄われた“昔恋しい銀座の柳”を復活させたのは
安達商会の頃である。

ゴルフコースに初進出するのは昭和7年の六郷ゴルフコース、東京と川崎を隔てる多摩川の東京側河川敷に
18ホール・5580ヤード・パー68のコースを造り上げた。設計は清木一男、戦前の鷹之台CC、戦後の青梅GCなどを設計した人だ。

以後、山中、淀川、信田山(以上昭和10年開場)函館GC(昭和11年)とゴルフ場造成事業が続き、昭和11年に名門小金井CCを手掛けることになる。
 まだ大成建設など建設大手がゴルフ場建設に進出していない時代だ。小金井CC完成で安達建設への評価は決定的となり、
昭和4年から13年にかけて名古屋GC、宝塚GC、鳴尾GC、茨木CC、相模CC、軽井沢GC、広野GC、旭川GC、武蔵野CC、川奈GC、東京GC、
さらに海外でも大連星ヶ浦、釜山、京城、青島、上海などでもゴルフ場造成を集中して受注する。

その中で昭和13年、新霞ヶ関ゴルフ倶楽部(昭和15年合併して現東京ゴルフ倶楽部となる)の建設中、安達貞市社長は、
隣接する霞ヶ関カンツリー倶楽部の東、西36ホールの広大な姿を見せつけられ、そして悟ったと後に述べている。
「これからのチャンピオンコースは18ホールでは不足、36ホールのダブルチャンピオンコースだ」と。この信念が茨城GCに活かされる。

上田治美学を関東平野にも・・・

 昭和30年に着工、4年がかりで完成した都民ゴルフ場36ホールは相次ぐ台風大雨で冠水、クローズが続き、心痛めた安達貞市社長は、
新しいゴルフ場つくりのための土地探しを始めた。

条件は坪500円以下36ホール分の広さだった。現存の横浜CC、戸塚CC、高坂CC、旧柏GCなどの用地も検分したが不合格。
昭和33年8月に調査した茨城県筑波郡伊奈村小島新田(現在地)を買収と決まって、昭和34年2月着工。 
コース設計は貞市社長と親しい上田治と決った。設計者からの注文は「フェアウェイを広く、バンカーを少なく要所だけ、バックテイはより長くすること。
東コースはマウンドとスロープを主体とし、西コースは池を主体に考える」というものだった。

上田治設計がイメージしたものは、そのまま現在も残されていると『社史安達建設グループ110年』に記録している。
 地形は広く理想的にフラットでブルドーザーが2台と5人の社員だけ、一人の下請けも使わず終了したという。
「信じられない」と社史も驚きを隠さない。

 昭和36年4月東コース18ホールズ仮開場。
 昭和37年9月東・西36ホールを本開場

 平坦地をめぐる上田治の戦略的解釈
 
 東コースを初めてラウンドした時、朝早く1番テイに立った瞬間、筆者は―ああこのことか―と直感した。
200ヤード先の両側に柔媚な姿をした二つの大きなマウンドが相対していて、そのバランスから生まれる優雅な雰囲気に心奪われたのだ。
紛れもなく名門の風格を漂わせていた。

 ボビー・ジョーンズもオーガスタ・ナショナルでバンカーを数多くすることを嫌ってマウンドに代えているが
「ゴルフコースにバンカーを多く置くのは感心しない・バンカーでなく、マウンドを置くと風格が出る」と語ったのは、上田治の弟子鈴木正一だった。

12、13、14番ホールでは、あるいはテイ前、ときにはグリーン前を大きな地面の摺曲が横断して走っている。
しかもそれら地表の皺は12番では池となり、13番・パー3ではグリーン前の
深いハロー(落ち込み)となりさらにその先では池になっている。
14番は左曲りの姿の美しいホールだが、ここでは地面の摺曲は池に化けて使われているのだ。

 平坦な地形の中の数少ない摺曲、地溝をゴルフコースの戦略上の変化として使うのは井上誠一が龍ヶ崎CCで赤星六郎が我孫子GCで試みている。
地表の変化の利用であるが、上田治も大阪GCや奈良国際GCで、山の地形を戦略表現化してみせたように、
茨城Gでは、平坦地の数少ない変幻の戦略化の表現だったのではあるまいか。

 18番ホールは、2打から打下して行って、グリーン前で小さいクリークを越えるレイアウトだが、それはそのまま地表の波打つ姿を
設計上のスリルとして利用、表現していて、仕上げのホールらしい内容である。
真ッ平な此の地では、そのように表現されることでより風格ある戦略性を表現することが出来たのだ。
 いずれにしろ茨城GC東コースは、安達建設グループの旗艦(フラッグシップ)となるコースである。

茨城ゴルフ倶楽部 東コース
コース所在地   茨城県つくばみらい市小島新田
コース規模     18H・7134Y・P72
            コースレート73.3
開場年月日    昭和37年9月28日
設計者       上田 治
経営        日勧興業

「田野辺 薫氏の名門コースめぐり」より・・・