加西インターカントリークラブ

6818y Par72


花と歴史のまち兵庫県加西市、中国自動車道・加西I.Cから、わずか1分と言う
絶好の立地条件を誇る、敷地面積・延べ128万uの高台に築かれた豪華な
クラブハウスと、小山が連なる丘陵地を巧みに生かした故 上田 治氏による
設計のゴルフコースは、その完成度の高さに上田氏自身が、自画自賛されたと
伝われております。

施設内にはソメイヨシノの桜を初め四季折々の花々や、水辺に集まる野鳥たちが
コースを彩り、プレイヤーの心を癒してくれます。


昭和43年9月21日、生まれた時の名前は、山陽カンツリー倶楽部だった。

昭和42年北條、泉、加西3町が合併、加西市となる前の兵庫県河西郡泉町は、紫雲に乗って天竺から飛来した
という法道仙人ゆかりの一乗寺、五百羅漢の石仏で有名な羅漢寺など名刺旧蹟はあるものの産業がなかった。

そこで泉町当局(町長・内藤節冶)では、ようやく三木市から小野市へと北上してきたゴルフ場新設ブームに
乗ろうとしたのか、町営ゴルフ場計画を進め、予定地の愛宕山裾をぐるりとまわる37万坪の買収交渉が、
かなり順調に進んでいた。

そこへ3町合併の市制昇格が実現、町営ゴルフ場計画にストップがかかった。代わって計画を引き継いだのが、
同じ兵庫県下の有馬カンツリー倶楽部の支配人・藤井邦彦だった。

昭和43年9月21日、18ホール・6589ヤード・パー72の山陽カンツリー倶楽部として完成、開場。アウトは
ロングヒッター向きのフラットで広い9ホール、インは標高180メートルの愛宕山を中心に、その裾野を一周する
戦略型で、距離は短いが高度のテクニックが求められ、アウトとインが対照的な設計だった。

原設計は社長・藤井邦彦(改名して宏祐)、むろんコース設計は素人だから、最終仕上げを西の巨匠といわれ
始めた上田治に依頼した。

戦前から廣野GC育ちの上田は、昭和36年開場の“廣野GCの分家”小野GCを設計してさらに人気倍増中で、
距離的にも近く地形も似ている山陽CCは“小野GCに似ている”と評判になった。

会場時の経営母体は(株)山陽カンツリー倶楽部、資本金750万円、社長・藤井邦彦。理事長・内藤節冶(
初代加西市長・元泉町長)。町営ゴルフ場を発案した人だ。

第一次会員募集は25万円。会員は姫路、加古川、神戸からが多く、平成3年中国道・加西インター開通後は、
大阪(約1時間)、宝塚からも増えている。

平成7年、阪神淡路大震災後、会員からの預託金返還請求が多くなり、民事再生法を申請。現在の経営
母体は、京都府に舞鶴カントリークラブを経営する鶴栄リゾートグループに継承された。なおクラブ名称は
平成13年、経営譲渡に伴って、山陽カンツリー倶楽部から加西インターカントリークラブに変更された。

(田野辺 薫氏の「ゴルフの歴史を歩こう。」から)


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